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2008年02月09日
雲太・和二・京三(No.2)
..................................................................................撮影:奥上林 睦寄町

(前回の続き)
勿論、大国主命はそのような形で国譲りをしていない。大和朝廷の豪勇無双のタケミカヅチ(建御雷)は、オオクニヌシの息子タケミナカタ(建御名方)を戦で破って諏訪大社に封じ込め、もう一人の息子コトシロヌシ(事代主)は海中へ投身自殺した。また、オオクニヌシ自身も戦に破れ、自殺したか処刑されたとも云われる。
無念の死を遂げたオオクニヌシが怨霊となってこの世に現れ、様々な災いをもたらさないように日本一大きな建物を立て霊界に封じ込めた。その神殿にはオオクニヌシが横を向いて神座し、その前を大和朝廷の五人の神が固めている。私たちが拝んでいるのはこの五神だという。また、大社の神官は代々アマテラス子孫の出雲国造家だとも・・・。
ここでの参拝は二礼四拍手一拝、あの応神天皇を祀る宇佐八幡宮と同じだ。つまり、四(死)拍手で封じ込めているのだと云う。当時の人々は疫病や天災などの転変地異は霊のなす業と信じていた。そして、無念の死を遂げた人間は怨霊となってこの世に現れ、殺害した人々に災いをもたらすと・・・。古来より日本人が持つ怨霊信仰である。
そして、怨霊から逃れたいと大陸から伝来した、当時、最新の科学でもあった仏教の力を借りて逃れようとした。大和東大寺大仏殿は、無実の罪で殺害された長屋王一族の供養つまり怨霊鎮魂のため聖武天皇の発願により建設したと云う。その新しい神殿には八幡大神がおさまった。手向山八幡宮だ。(参考文献:井沢元彦著「逆説の日本史」)
現代、私たちが信仰する鎌倉時代に花開いた近代仏教は、人民の救済として普及したとも云われるが、推古天皇7年(599)聖徳太子が建立したとされる君尾山光明寺の、72軒の坊舎に住む修練者たちは何を目的として修業に励んだのだろう・・・・。
投稿者 ryokudo : 2008年02月09日 15:46