2010年07月25日
清流の魚たち(No.3)
....................................................................... ......撮影:奥上林 睦寄町

(前回の続き) 上林川に泳いでいたハヤ
骨にはマグネシウムやリン、硫黄、亜鉛、鉄など生命にとって必要なミネラルが含まれている。これらの成分は海水に多く含まれているものであり、骨は豊かな海の代わりなのだ。骨という海を持ったケイロレビスは川の王者となって生き残り、清流の魚たちは全てこの子孫でもある。そして、陸に住む私たちの背骨もケイロビクスから受け継いだ物だという。
ところが、こうした魚たちとは全く違う生き方を選んだ魚がこの時代に登場している。デポン紀前期の海に出現し、ケイロビクスと同じように背骨を持ったユーステノプテロン。この魚は4枚のヒレに7個の指のような骨を持ち、湖の岸に近いところや浅い場所に住みながらヒレをまるで手のように使って植物をかき分けながら動き回り餌を捕獲していたそうだ。
また、水中の酸素不足を補うための肺をもち、空気中の酸素を利用していたとも考えられている。ユーステノプテロンから1千万年の後、初めて陸に上がったのが先のイクチオステガである。このイクチオステガの偉大な第一歩によって私たちへ繋がる動物の歴史が始まった。(参考文献:「生命 NHKスペシャル40億年はるかなる旅」の2巻「魚たちの上陸作戦」)
地球上の3,000万種とも云われる生命は、様々な分野の専門家によって進化の姿が明らかにされ、NHKスタッフの方々により体系化された情報として発信されている。歴史は知恵の宝庫ともいわれ、過去を知ることは現在を知り、そして、未来を予測することに繋がるとも・・・。科学の発達によって神の領域は狭まり地球の真実の姿が明らかにされつつあるとも云える。(終)
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2010年07月18日
清流の魚たち(No.2)
.....................................................................撮影:睦寄町 あやべ温泉

(前回の続き) あやべ温泉の水槽の中で泳ぐアマゴ
今から3億6千万年前、初めて陸という未知の世界に挑んだ生命がいた。陸上動物の祖先イクチオステガという現在のサンショウウオによく似た魚類だ。
最古の魚は、今から4億6千万年前のアランダスビスというヒレのない泳ぎ方が不安定な魚であった。この時代、海の王者はオウムガイであり魚類などを捕獲し、食料としていた。そのため、アランダスビスはオウムガイなどの天敵から逃れるために川という新しい世界を目指して進化していった。
しかし、海で生まれた生命にとって塩分濃度の低い川は危険な場所であり、簡単に済める場所ではなかった。そんな中、河口に住みながら腎臓を発達させ、身体に入った余分な水を血液からしぼり出し、塩分濃度の違いを克服したのが4億年前に登場したプテラスピス。
そして、沼や急流など様々な河川の環境の中で進化した魚類は3億9千万年前、背骨を持ったケイロレピスという魚が現れた。この魚は骨の他に泳ぎをコントロールする2枚の胸ビレと腹ビレをもち、獲物を捕らえるアゴと鋭い歯を持っており、今の魚と同じ特徴を備えていたという。
骨は筋肉を支えるだけでなくミネラルの貯蔵庫という役割がある。特にカルシュウムは生命の活動に欠かせないものであり、神経の働きや心臓の筋肉が動くためにはなくてはならないもので、カルシウムが不足すると生命にとってはたいへん危険な状態になる。カルシウムが不足した時は骨から溶け出して補給するそうだ。(次回へ続く)
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2010年07月12日
清流の魚たち(No,1)
.................................................................................撮影:睦寄町 山内

山内川で釣り上げたモトクソ
この地方では、我輩をモトクソと呼んでいる。天敵の少ない河川の上流付近の水の綺麗な場所を住処としているが、ここは食料に乏しいことから川虫や川面を飛ぶ虫など食べられるものなら大概のものは選り好みなしに食べることにしている。特に、瀬虫やミミズは大好物である。
あやべ温泉の近くを流れる山内川にも沢山の仲間がいて、天気の良い日には川の溜まりに集まって日光浴を楽しんでいる。しかし、そんな日は近所の人間の子供たちが魚釣りに来ていることがあり、針のついた餌につられて飛び出した仲間が真っ先に吊り上げられていく。
また、ときどき空から白鷺が舞い降りてきて長い口ばしで突くので油断ができない。しかし、何といっても一番の天敵はオオサンショウウオだ。気持ちよく泳いでいると岩陰から突然とび出して来て大きな口でパクリとやられてしまう。彼に狙われたら流石に俊敏な我輩もひとたまりもない。
上林川のあるイセキの下には20匹近いサンショウウオがいて、夜になると餌を求めて彼方此方を徘徊し、我々の仲間を食べているという。上林川にはすっかり魚が少なくなったと漁業組合の人々は嘆いている。
さて、魚にちなんで古代に海から川に上がった魚類の歴史を紐解いてみたい。これからの話は小学館発行「生命 NHKスペシャル40億年はるかなる旅」の2巻「魚たちの上陸作戦」を紹介しながら魚類の進化について話を進めて行きたい。
投稿者 ryokudo : 09:18 | コメント (0)
2010年06月19日
大岩の滝
.................................................................................撮影:睦寄町 大岩

60メートルほどの天空から流れる清流は幾重にも姿を変え、草壁川に吸い込まれる。四季折々に姿を変える滝の風情をお楽しみ下さい。清流は草壁川から上林川を経て由良川へと導かれ、やがて、日本海にたどりつきます。
『上流は下流を思い、下流は上流に感謝する」の思いを乗せて・・・・』上林川を美しくする会
今春、大岩の滝の周辺整備をした上林川を美しくする会(熊内輝夫会長)が設置した案内板には上記のように記述されている。
新しく設置されたベンチに座って滝を眺めると何故かとても気持ちが和む。那智の滝や華厳の滝などに比べると水量が少なく、直下型ではないことから迫力には乏しいけれど、岩肌に沿って流れ落ちる水流は独特の風情を感じさせてくれる。
白い泡をたてながら流れ落ちる水の音、周囲の森の緑、そして、川底まで透きとおった草壁川には魚の泳ぐ姿が目に映り、まさに上林の大自然がここに凝縮されている感じがする。大岩にある2軒の民家は物干し竿が架かるほど狭い谷間の一角にあって、そこでは稲作も行われている。
この上流には、テレビでも度々紹介され、栃の実で有名な水源の里古屋がある。自動車道は民家が数軒しかない古屋で行き止りとなるが、近代以前、人々が歩いて旅した時代には、丹後方面から京都への主街道として大いに栄えたという。きっと、中世の旅人たちもこの滝を眺め、旅の疲れを癒したことだろう。
投稿者 ryokudo : 14:24 | コメント (0)
2010年04月12日
花と恐竜「桜」No.4
...........................................................................撮影:五津合町 大町

(前回の続き) 可憐な花びらの桜
一方、昆虫と手を結ぶことで効率よく種をつけられるようになった花は、更に果物という新しいご褒美をつくって種を運んでもらおうとした。その果実を食料としたのが恐竜の片隅で生きていたネズミほどの大きさの哺乳類であった。花と哺乳類は果物を通して1対1の親密な関係を築き上げていった。
花が一気に勢力を増していった白亜紀、北米大陸に少なくとも10種類以上いた巨大恐竜は、わずか1種類を除いて絶滅してしまった。そんな中、花を食べる恐竜もでてきた。全長9mほどのトリケラトプスだ。しかし、恐竜は種子散布して植物の繁殖を助けるような共生関係に入ることが出来ず、次第に排斥されて生態系の中から外れていったという。そして、1億6,000千万年に渡って繁栄した恐竜のとどめを刺すような大事件が起こったのが、6,500万年前の出来事だった。直径10km、桁外れに大きな隕石がメキシコのユカタン半島に落下した。
空高く巻き上げられた大量の粉塵によって太陽の光がささない暗黒の世界が続き、この事件を最後に恐竜は地球から姿を消してしまった。一方、小さな哺乳類は暗黒の長い冬を生き抜き、急速に発展していった。花はさまざまな種類の果物を生み出し、それと共に多くのサルの祖先が誕生していった。人につながる霊長類の誕生だ。
私たちが花をとても美しいと思うのは恐竜が支配した時代に花に支えられ、花と共に繁栄の第一歩を築いたことを受けついでいるのかもしれない。地球の生態系のひとつにすぎない人類も植物と共に生きることなくして繁栄を続けることは出来ない・・・・。(参考文献:NHKスペシャル40億年はるかな旅 生命) おわり
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2010年04月08日
花と恐竜「モクレン」(No.3)
...............................................................................撮影:中上林 睦合町

中上林 睦合町に咲くモクレン
今から1億1千万年前、植物が新たに成し遂げた進化・・・・それは花の誕生だった。最初に誕生した花はコブシの祖先でその花の誕生にはコガネムシがかかわっていたという。森林を舞う大量の花粉。子孫を残すための大切な花粉はコガネムシの大好物であった。ある時、花粉を食べるコガネムシの足に花粉がつき、次の餌場でメシベに届いた。
この瞬間、植物の新たな戦略が始まった。昆虫たちに生殖を手伝ってもらうことは風に任せて花粉を飛ばすよりはるかに効率的な繁殖方法だった。そして、植物は更に花粉を囲む花に目立つ色や香りをつけて昆虫を招き寄せるサインを作り出していった。こうして、被子植物は花をつけることによって動物と共に生き始めた。
更に重要なのは、花はとても早く世代交代する。杉や松などの裸子植物は風媒という方法で花粉がメシベに届いて受精が完了するまでには1年かかるが、新しく誕生した花は、24時間以内に受粉から生殖が完了する。恐竜が暮らす巨大森林の片隅で花と昆虫はお互いに助け合いながら進化していった。
花はやがて花粉より魅力的な蜜を作るようになり、その結果、蜂やチョウ、ガなどの昆虫が生まれていった。繁殖の早い花の顕花植物、つまり被子植物の登場によって裸子植物の森はしだいに駆逐され消えていった。それと同時に、裸子植物を食料にして繁栄を誇ったバロサウルスなどの巨大恐竜たちも食糧不足に見舞われて姿を消していったと云われる。(次回に続く)
投稿者 ryokudo : 14:36 | コメント (0)
花と恐竜「桃」(No.2)
................................................................................撮影:睦寄町 味工房

味工房の庭に咲く紅梅
植物が最初に海から上陸したのは4億年前、シダ植物が5千万年かかって水辺の世界を覆いつくし、高さ30mの巨木の森を作り上げていった。胞子でふえるシダ植物は水を必要とすることから陸地の奥地までは進出できなかったが、2億2千万年前、繁殖方法を種に変えた裸子植物が現れた。
裸子植物は今の杉やイチョウにつながり花粉を風に飛ばして受粉させることから、水の中立ちがなくても子孫を残せるようになり大陸全体に広がっていった。また、三畳紀は超大陸バンゲアが分裂を始めた時期でもあり、活発な火山活動の結果、大気中の二酸化炭素は今の4倍から8倍もあり、植物が光合成するのに理想的な環境であった。
高さ数十メートルもある裸子植物が大陸全体に広まる中で動物たちも様々に進化し、最初の恐竜が誕生した。小さかった恐竜たちは巨木に追いつこうとするかのように巨大化していき、5千万年の時間をかけて最大の陸上動物へ進化していった。
バロサウルスは全長27m、高さ15mもあり2本の前足で立つことができ、他の動物が届かない高い場所の餌を独占することができたという。そして、ジュラ紀後期の北米大陸には体長50mのセイスモサウルスを筆頭に10種類を超える巨大恐竜がいたそうだ。そんな中、動物に食べられるだけの植物も新たなる進化の戦略を開発していった。(次回へ続く)
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2009年10月31日
河牟奈備神社1300年祭
.....................................................................撮影:口上林 名畑町 大宮

久保宮司により1300年祭の儀式が行われた河牟奈備神社
今、上林のあちこちの神社で五穀豊穣などを祈願して秋祭が行われている。ここ、口上林名畑町大宮にある河牟奈備(かむなび)神社では、10月12日の晴天に恵まれた秋空の下、創建1300年祭が盛大に開催された。
きれいに清掃された境内で大勢の参拝者が見守る中、四方市長など多数の来賓を招いて開催され、久保宮司により厳かに祭事が進められた。式典の後、氏子総代の永井忠之さんは「子供たちが、道路から神社に向かって会釈してくれているのを見るとたいへん嬉しい。是非、次の世代に受継いで行きたい」と挨拶されていた。
綾部市内にある97神社の内、式内社といわれる神社は12社ある。近隣では唯一の式内社である河牟奈備神社は第43代孝明天皇の和銅2年(709)に創建され、天下春命(あめのしたはるのみこと)を祭神として伊根町を中心とした八ヶ村の氏神で、鎮座地は今も大宮と呼ばれている。
神社は、神道の信仰に基づいて作られた恒設の祭祀施設。昭和21年に創設された伊勢神宮を本宮とする神社本庁には8万社の神社が登録され、そこには八百万の神々が祀られている。万葉集と出雲国風土記には「かんなび」で神を祀ることがみられるが、「かんなび」とは神のなばるところ、神のおられる神聖なところとみられ、神聖な場、森、山などをさしての語であるという。名畑町大宮の河牟奈備(かむなび)山の麓にある河牟奈備神社の名称の由来と関わりがあるのかも・・・・。(参考文献:日本大百科全書)
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2009年08月21日
世紀の天体ショー皆既日食(No.2)
.................................................................................撮影:睦寄町 山内

(No.1の続き) 山内自治会 公民館 床の間の掛け軸
「後漢東夷伝」によると、桓帝(AD147~167)と霊帝(AD168~189年)の治世の間、倭国は大いに乱れ、激しい内戦状態にあった。そして、鬼神道に使える卑弥呼が出現し、人々はこれを「共立」して王にしたとある。 小国家連合国 邪馬台国の女王誕生である。その倭国騒乱の原因がAD158年に起きた皆既日食にあるという。そして、太陽信仰が生まれ、その化身として卑弥呼が女王として君臨したとも・・・・。
時代は下って「魏志倭人伝」は伝える。倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは平素から不和であった。それゆえ倭国は載斯鳥越を帯方郡(朝鮮半島にあった魏の出先機関)に派遣して、狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対して塞曹椽史の張政を派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは書状と軍旗を難弁米(卑弥呼の家来)に授け、ついて檄文を作って教えを諭した。・・・して、卑弥呼は死んだ。
AD248年の皆既日食により、太陽を神と崇める国、邪馬台国は狗奴国との戦闘で大敗北した。太陽の化身である女王卑弥呼は霊力の衰えを指摘され、魏国(中国)から派遣された張政に諭され、その責任をとって殺された。ここから日本書紀が伝える「アマテラスの岩戸隠れ」の神話が生まれたという。大和朝廷は天照大神(アマテラス)を祖先神と崇めるが、邪馬台国の女王卑弥呼がそのモデルだとも・・・・。
詳しくは井沢元彦著「逆説の日本史」を参照願いたい。
あやべ温泉に隣接する山内自治会の公民館の床の間には「天照大神」を祀る掛け軸があり、筆者は行事の度にそれを眺めながら古代に想いを馳せている。日本の古代史には謎の部分が多いというが、それだけにロマンを感じさせてくれる。次回、日本での皆既日食は26年後に起きるそうだが、筆者はこの世にいるだろうか。(おわり)
投稿者 ryokudo : 17:36 | コメント (0)
世紀の天体ショー皆既日食(No.1)
.................................................................撮影:小笠原諸島(友人提供)

暗空に見事なダイヤモンドリングが光る皆既日食
月が太陽を完全に覆い隠す皆既日食が7月22日、日本の陸地では46年ぶりに観測され、その様子はテレビや新聞を通して詳しく知ることができた。皆既日食が起きる「皆既帯」はインド、ネパール、中国、そして、日本では鹿児島県トカラ列島の悪石島など。硫黄島付近の太平洋上では6分44秒の皆既日食が見られたという。
筆者も世紀の天体ショウをカメラに収めようと空に向けて待っていたが残念ながら上林の空は雲に覆われ、太陽の微笑みは得られなかった。皆既日食はその地域の動植物にも大きな影響を与えた。コウモリが飛び交い、鳥が眠りにつき、ダチョウが交尾をはじめたという。また、気温が5℃低下して周辺との温度差により強い風が発生したとも・・・・。
今回は、上林の地とは直接関係ないが、日本で46年ぶりに起きた皆既日食をテーマに古代に想いを馳せてみたい。一知半解と限られた紙面での説明不足はご容赦願いたい。
科学が発達した現代では様々なことが解明され、何時、何処で、どんな現象が、どのようにして起きるのかが解明され、情報としてタイムリーに発信されているが、これが暦や科学の発達していない日本の古代社会で起きたらどうなるだろう。実は、日本の文明の幼児期であるAD158年とAD248年に2回の皆既日食が起き、それが国家形成に大きな影響を与えたという。(参考文献:井沢元彦著「逆説の日本史」)(No.2へ続く)
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2009年01月04日
大師堂の聖徳太子(No.2)
................................................................................撮影:睦寄町 光明寺

聖徳太子など三体の木像が安置されている大師堂(開山堂)
太子14歳の時、仏教を広めようとする曽我氏と従来の神を崇拝する物部氏との間に争いが起こった。いわゆる崇仏論争である。初めは物部氏が優勢であったが、曽我氏に味方した太子が四天王を彫刻し、祈願したことから結束が固まり曽我氏が勝利した。そして、戦前の約束どおり大阪難波に四天王寺を建立した。日本で始めての官寺である。
華々しい活躍のあった太子ではあるが、父に死なれた14歳から22歳頃までは、極めて劣悪な家庭環境の中にあったことから強度のノイローゼになり、高句麗からきた仏僧の恵慈法師と共に数年間伊予の温泉で転地療養を送ったとも・・・・。また、太子は埋葬や殯(もがり)期間の短さなどから「変死」であるとも云われる。そして、法隆寺は太子の怨霊鎮魂のために建立されたのだとも・・・・。
1400年も前のことを知ってどんな役に立つのか。歴史を学ぶ意義は何かを改めて考えてみたい。ある時、友人がこんなことを云った。「古墳を発掘して何が面白いのだろう」と。そこで掘っている人は応えた。「土いじりをしている訳ではないのだ。墓に眠る人や当時に生きた人々と話をしているんだよ」と。
西洋の諺に「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とある。また、歴史は知恵の宝庫であるとも云われる。確かに過去のことは、こうすれば、こうなると結果が分かっているから後世の人々が学ぶところは多々ある。そのためには事実をしっかりと伝えることが大切ではあるが、前漢の歴史家の司馬遷はそのことに命を懸けたとも云われる。筆者は体験にも学べない愚者ではあるが歴史を学ぶ意義をこのように理解する。(終わり)
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2008年12月29日
大師堂の聖徳太子(No.1)

大師堂に安置されている三体の木像(中央が聖徳太子)
あやべ温泉の裏山にある君尾山光明寺の大師堂には三体の木像が安置されている。推古天皇7年(599年)に光明寺を開設した聖徳太子と真言宗開祖の弘法大師、そして、光明寺中興の祖で弘法大師の孫弟子に当たる理源大師だ。今回は、その内の一人である聖徳太子を主人公にして話を進めてみたい。なお、一知半解と紙面不足のための言葉足らずはご容赦願いたい。(参考文献 井沢元彦著:逆説の日本史)
ご承知のとおり、聖徳太子という名は死んでからつけられたもので(これを諡号という)生前は厩戸王子と呼ばれていた。用明天皇の子で、日本初の女帝である推古天皇の下で593年摂政に任じられ皇太子として国政を司り任那奪回のための新羅出兵、冠位十二階や17条憲法の制定、遣隋使の派遣など数々の改革を成し遂げ、天皇を中心とした中央集権国家の礎を築いた人物とされている。
冠位十二階とは徳・仁・礼・信・義・智など儒教の徳目で分けられたもので、家柄によって身分が決まる氏性制と違い、個人の能力によって地位を決めるもので昇進も可能な制度。また、17条憲法は、相争う豪族たちに臣下としての心構えを示したものだ。
ちなみに、第1条の「和を以って尊しとなす」とは、争うことをせず話し合えば物事は解決する。第2条の「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」、第3条「詔(天皇の命令)を承りては必ず謹め」・・と続くが、和が第一条にあるのは仏教の教えよりも、また、天皇の命令よりも話し合いを大切にしなさいと云っている。(次回に続く)
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2008年06月13日
松の立ち枯れ
..............................................................................撮影:奥上林 睦寄町

沢山の松が枯れ始めた奥上林の山々
10年ほど前から目立ち始めた松の立枯れ。今、上林の山々では多くの松の木が枯れ、府道1号線をドライブすると異様な風景が目に映る。美しい上林の森を形成する松の木ではあるが、急激な環境変化に対応できず、枯れたその姿はガン細胞のように山の彼方此方に転移し、赤茶けた姿をさらしている。
人間が排出する二酸化炭素の影響により地球は物凄いスピードで温暖化が進んでいる。北極圏では氷が少なくなり、今年の夏は例年の60%の面積しかなかったそうだ。そこで生息する白熊などの動物は食糧のアザラシが捕獲できずに死亡しており、このままでは絶滅していくという。
北極圏やグリーンランドなど全ての氷が解けると海面は6メートル上昇するそうだ。また、ヒマラヤなどの山の氷が解けて無くなる事により、飲料水や農業用水が不足し、東アジアでは20億人が食糧不足に陥るとも云われる。地球の環境問題は温暖化だけではない。酸性雨や砂漠化、資源の枯渇や海洋汚染、生物種の減少などがある。
これらは全て人間の営みによって引き起こされている問題ではあるが、最早止めようがないとも云われる。人類が誕生してたった5~600万年、他の生物とは全く異なった進化を遂げ、科学を発達させ、豊かな生活を営むことが出来るようになったが、これは何時まで持続可能なのだろう。
次世代に豊かな自然環境を提供し、生物がその多様性を維持しながら生き続けるために、今、私達は何ができるのだろう。地球が、銀河に浮かぶ生命豊かな美しい星であり続けるために・・・・。
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2008年04月30日
荒神信仰
............................................................................撮影:奥上林 睦寄町

睦寄町に在住の岩鼻貢さんのお宅には、荒神さんを祭る小さな祠がある。この祠、新しく作り替えたことから3月の大安の日に、口上林武吉の久保健治さんを宮司に招いて入魂の儀式が行われた(写真)。
岩鼻さんの屋敷は、その昔、あやべ温泉のすぐ近くにあった。結婚前に現在のところに転居されたが、その時、荒神さんも一緒に移されたそうだ。奥さんの久恵さんは「両親が大切に祀っていたものであり、私もこの家を大切にしており、荒神さんを守って行きたいと思っている」と話され、毎朝、お水を供え、両手を合わしていると言われる。
荒神さんは、この地方の多くの家で信仰されており、日本古来の民族的宗教である神道でもある。神仏を敬い、尊ぶ気持ちが、ひいては家族を大切にし、地域との融和をはかり、住みよい社会を育むための日本人の知恵でもあろう。
<荒神信仰 一口メモ>
日本では、古来より激しい霊威を発揮して、人間社会に災いをもたらすような神霊を「荒振神」(アラブルガミ)として、畏れ敬う信仰があった。火は、全てのものを焼き尽くすものであり、また、食べ物を調理するためには必ず必要なものである。
古来から、人間は火に対して、畏れの気持ちと感謝の気持ちを持ち、家や作物の守護神として信仰してきた。激しい霊威、神威を持たれているので、火の神、竈の神を荒神と呼んでいる。
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2008年02月09日
雲太・和二・京三(No.2)
..................................................................................撮影:奥上林 睦寄町

(前回の続き)
勿論、大国主命はそのような形で国譲りをしていない。大和朝廷の豪勇無双のタケミカヅチ(建御雷)は、オオクニヌシの息子タケミナカタ(建御名方)を戦で破って諏訪大社に封じ込め、もう一人の息子コトシロヌシ(事代主)は海中へ投身自殺した。また、オオクニヌシ自身も戦に破れ、自殺したか処刑されたとも云われる。
無念の死を遂げたオオクニヌシが怨霊となってこの世に現れ、様々な災いをもたらさないように日本一大きな建物を立て霊界に封じ込めた。その神殿にはオオクニヌシが横を向いて神座し、その前を大和朝廷の五人の神が固めている。私たちが拝んでいるのはこの五神だという。また、大社の神官は代々アマテラス子孫の出雲国造家だとも・・・。
ここでの参拝は二礼四拍手一拝、あの応神天皇を祀る宇佐八幡宮と同じだ。つまり、四(死)拍手で封じ込めているのだと云う。当時の人々は疫病や天災などの転変地異は霊のなす業と信じていた。そして、無念の死を遂げた人間は怨霊となってこの世に現れ、殺害した人々に災いをもたらすと・・・。古来より日本人が持つ怨霊信仰である。
そして、怨霊から逃れたいと大陸から伝来した、当時、最新の科学でもあった仏教の力を借りて逃れようとした。大和東大寺大仏殿は、無実の罪で殺害された長屋王一族の供養つまり怨霊鎮魂のため聖武天皇の発願により建設したと云う。その新しい神殿には八幡大神がおさまった。手向山八幡宮だ。(参考文献:井沢元彦著「逆説の日本史」)
現代、私たちが信仰する鎌倉時代に花開いた近代仏教は、人民の救済として普及したとも云われるが、推古天皇7年(599)聖徳太子が建立したとされる君尾山光明寺の、72軒の坊舎に住む修練者たちは何を目的として修業に励んだのだろう・・・・。
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2008年01月28日
雲太・和二・京三(No.1)
..................................................................................撮影:君尾山 光明寺

「雲太・和二・京三」という言葉をご存知だろうか。日本史に興味のある方ならご承知のとおり、これは平安時代の源為憲の「口遊(くちずさみ)」という本に書かれているもので、当時の建築物の背の高い順を謳った数え歌である。
出雲太郎、大和二郎、京三郎の略で、太郎は出雲大社本殿、二郎は大和東大寺大仏殿、三郎は平安京大極殿。当時の大和東大寺大仏殿45m、それより高い出雲大社本殿は48mあり、そこへ上がる階段の長さは109mもあったとか。あまりの高さに平安中期から鎌倉中期までの200年間に7回も倒れているそうだ。
今回は、あやべ温泉を、そして上林の自然をこよなく愛する東京からのお客様(次回写真)と共に君尾山光明寺(写真)を参拝しながら日本史を振り返り、古来より日本人が感じる霊、特に仏教と結びついた怨霊信仰について考えてみたい。
大国主命を主祭神とする出雲大社は“いずもおおやしろ“と読むのが正しいが、何故こんなに高い建物を立てる必要があったのだろう。「古事記」や「日本書紀」が伝える神話によると、出雲一帯に国を築いた大国主命の下に、天界(高天原)から「国を天照大神に差し出すように」という遣いがやってきた。
そこで、大国主命は「国を差し上げる代わりに、私の住むところとして、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい」と願いでた。アマテラスはその願いを聞き入れ、天にも届かんばかり高い社を建てたのが出雲大社だと伝えられている。
(次回へ続く)
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2007年08月04日
スッポン
........................................................................................撮影:あやべ温泉

噛まれたら雷が鳴るまで離さないというスッポン。あやべ温泉のすぐ近くに住む熊内さんが由良川の支流、土師川で釣り糸に掛かったものを頂いた。二王館の水槽の中には、現在4~5匹のスッポンが泳いでおり大きいものは30 cm以上ある。綺麗な水の中で泥抜きをしてから食するが、まだ、筆者の口には届かず味はよく分からない。
養殖されていたものが逃げ出して野生化したとも云われるが、由良川やその支流の土師川には沢山のスッポンが生息しており、釣り好きの熊内さんが川岸に行くと水中へ逃げ込む姿がよく見られるという。上林川の下流でも捕れたという話を耳にする。ここでは、オイカワやウグイなどの小魚が少なくなったというが、スッポンやサンショウウオが多くなったことの影響があるのかも・・・・。
<スッポン 一口メモ>
ニホンスッポンは、別名キョクトウスッポンとかシナスッポンと云われ、中国、朝鮮半島、台湾、ロシアなどに生息する。日本では北海道を除く全域に生息する。ほとんどの時間を水中で過ごし、泳ぎが得意で素早く動き回り、魚や甲殻類、軟体動物などを手当たりしだいバリバリ食べるという。
結構臆病なところがあって、捕らえるとすぐに噛み付こうとするが、噛まれたら水中に入れると離すそうだ。古くは、物事をしつこく探求するものを「スッポンの何某」と呼ぶこともあったが、さて、現在はどのように例えられているのか・・・・。
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2007年07月17日
八反の滝
...............................................撮影:故屋岡町 早稲谷

梅雨で増水した山水が岩肌の急斜面を勢いよく流れ落ちる。観光パンフレッドにも記載されている八反の滝、裏八反の滝や弁天の滝はいずれも奥上林 故屋岡町にある。日本を代表する華厳の滝や那智の滝のように直下型ではないため、雄大さや華麗さでは劣るが、3ヶ所の滝は頭巾山の麓にあって険しい岩肌を、音を立て流れ落ちている。
6月23日、この日は都会で働く上林出身者と滝の撮影に同行した。40m程の長さがあり、3ヶ所の中ではこの滝が一番大きくて水量も多い。筆者も2年半前にUターン帰郷し、あやべ温泉の接客サービスに携わる傍ら、140回を超えるブログエントリーを担当する中で人々の生活や行事、自然などの取材をとおしてこの地域のことに幾分詳しくなった。
その範囲においては、長年住む地元の人たちより上林のことに詳しいかも知れない。その地域の様々なことを知ることにより理解が生まれ、そこで生活することの自覚ができ、自分が生きていく地域社会に愛着を感じることが出来るのかも知れない。人々と自然豊かな上林に乾杯。
投稿者 ryokudo : 12:11 | コメント (0)
2006年11月11日
88体の石仏さん
.........................................................................撮影:奥上林 睦寄町

あやべ温泉から北へ約2 km、君尾山光明寺の参道にある国宝二王門のすぐそばにある88体の石仏のお堂が新築され、11月3日 地域の関係者40数人が参加する中、当寺の楳林和尚と京都金戒光明寺の木村和尚を迎えて落慶法要が営まれた。
このお堂、参道の両側に44体ずつ安置されていたが、昨年の豪雪で片方のお堂が倒壊。石仏は地元の奥上林だけでなく、上林地域や山家など広範囲の住民から寄進された歴史があることから、国宝 君尾山を守る会(長野会長)が口、中、奥の3上林と山家の住民から寄付を募り、920人の善意が寄せられ新しいお堂の建設が進められていた。
光明寺の古文書「君尾山略記」によると、石仏は文政8年(1825)に上林や山家、和知、遠くは丹後方面の住民が人々の安寧を願って、第一番霊山寺の釈迦如来から88番大窪寺の薬師如来まで四国八十八ヶ寺の本尊を模した石仏を寄進したとされている。石仏に1回お参りすれば八十八ヶ寺の霊場を参拝したのと同じご利益があるとされるが、近年では地元の住民さえ石仏の存在を知るものは少ない。
百済の聖明王から538年 聖徳太子の祖父である欽明天皇の時、日本に入って来た仏教は飛鳥、奈良、平安時代を経て鎌倉時代に入り法然、栄西、親鸞、道元、一遍、日蓮、明恵など近代仏教の祖と云われる人たちによって「人民の救済」としての信仰は大いに庶民へ広がった。
本来、生きるための教えの仏教ではあるが、一般に信仰心が薄いと云われる日本人、このお堂が新築され石仏が安置されたのを機会に、地域の人々の参拝に期待したい。
投稿者 ryokudo : 14:04 | コメント (0)
2006年08月24日
幻の大栃の木
....................................................................................撮影:睦寄町 山内

樹齢およそ2000年、幹の周囲は最大で10.4 m、栃の木としては全国で2番目、京都府ではナンバーワンの大きさである。真近で見ると、この木の持つ迫力に圧倒され、敬愛の念すら感じる。これ程の巨木があやべ温泉からすぐ近くに生育していることは感激でもあり、また、誇りでもある。
8月最初の月曜日、あやべ温泉の従業員が毎月実施している地域の観光資源学習会の第2回目である。あやべ温泉から車で10分、徒歩で20分、君尾山光明寺近くにある大栃の木の見学だ。パンフレッドでは何度も見ているが、カメラマンの筆者を含めて参加者の多くが初めて見る樹木である。
この栃の木、幹の部分は樹木医に手当てされ、中身は削り取られている。また、年輪を数えることもできないため正確な樹齢は不明だが、生まれて此の方、君尾山の山頂からそれぞれの時代の出来事を眺めてきたことだろう。特に、戦国時代には3回の戦火に見舞われたが運良くそれを乗り切り生き延びてきている。
あやべ温泉に来て頂いたお客様にも、一度はこの大栃の木に足を運び、この巨木が見てきたそれぞれの時代のことを語りかけて見てほしい。筆者も、栃の実のできる紅葉の季節に、もう一度足を運びその実を拾いに行ってみたいと思う。
投稿者 ryokudo : 14:44 | コメント (0)
2006年07月15日
八幡神社(No.2)
...........................................................................撮影:中上林 八津合町

(以前にエントリーした原稿の写真や文章の一部を変更しました。再度の投稿です)
広い境内、お参りする人も少ないがこの女性、時々参拝に訪れているという。都市からこの上林へ嫁にきて、環境に慣れるまでに色々と気苦労があったそうだ。この神社にきて目を閉じ、手を合わせると、不思議と心が落ち着き、やすらかな気持ちになるという。
ところで、全国に4万社ある八幡神社の総本宮は、大分県宇佐市にある宇佐八幡宮だ。ここには、応神天皇、比売大神、神宮皇后の3神が祀られている。品位は皇室にのみ与えられる「位階」だが、聖武天皇は天平元年(749)八幡大神に一品を叙している。つまり、八幡神は皇室の祖先であり一品の位が贈られているという。
主祭神を応神天皇としているが不思議なことに比売大神が中央に配置されているという。この神社の拝礼方法は、二礼、四拍手、一拝である。あの大国主命を祭る出雲大社と同じ作法であり、全国でもこの2ヶ所だけである。つまり殺害された神であり、そのタタリを恐れて「死拍手」で封じ込めているという。
では、この宇佐八幡宮とは誰か。「逆説の日本史」の著者である井沢元彦氏によると、八幡宮の主祭神は比売大神であり、それは卑弥呼であるという。クナ国との戦いに敗れた邪馬台国の女王である卑弥呼はその敗戦責任をとらされて248年に殺された。そして、その卑弥呼が大和朝廷の祖であり、神格化されてアマテラス(天照大神)になったと・・・・。
また、この宇佐八幡宮は天皇家にとっての墓所であり、天照大神を祭る伊勢神宮は「創始者の銅像」であるとも・・・・。日本史には謎が多いが推理があるから面白くもある。興味のある方は「逆説の日本史」を読んでほしい。きっと歴史が面白くなる。
投稿者 ryokudo : 13:43 | コメント (0)
2006年07月05日
和紙工芸科の生徒たち(No.2)
.........................................................................撮影:黒谷和紙工芸の里

(前回の続き)
この時、プレスが強すぎると水分が不足して、うまく干板に密着せず剥がれ落ちるという。職人さんの仕事は、経験と勘が必要で、これを磨くのがなかなか大変だ。現在は、後継者不足で大切にされるが、昔ならぐずぐずしていたらパンチものだろう。
林さんは、10年のベテランであるが生徒たちに合わせて結構楽しそうに指導されている。しかし、1から教えるのはなかなか難しいものがあるという。今は、一般の方でも、できるところから始めているそうだ。しんどい仕事も楽しくやれば継続できるし、早く習得できるのかもしれない。この生徒たち、整理整頓やあいさつもキチットしてくれるのでとてもやりやすいそうだ。
一方、生徒たちも、紙すきは水の重さで均一化するのだと教えられたが、同じ厚みに紙を漉くのはとても難しいという。紙すきは簡単なようで奥が深いとも感じている。いづれにしても、これまで静かで、少し淋しかったこの黒谷和紙工芸の里、今は若者たちの笑い声でにぎわっている。
投稿者 ryokudo : 14:41 | コメント (0)
2006年07月01日
和紙工芸科の生徒たち
.............................................................................撮影:黒谷和紙工芸の里

伝統ある黒谷和紙工芸の里に、紙漉きに関心のある若者たちがやってきた。園部専門学校の和紙工芸科の生徒6名だ。5月から、毎週水曜日から金曜日までの3日間、ここでの実習があるため、朝早く園部を出発し、JRとあやバスを利用して通ってきているそうだ。
この生徒たち、遠くは九州の鹿児島や福岡そして埼玉県などから参加しているという。京都出身も一人おられるが、大半は他府県の生徒である。この日は、男女5名が参加し、指導者の林さんから叱咤激励されながらの8枚セットのハガキをつくる実習だ。
まず、楮を水の張った紙すきの船に入れてかき混ぜる。その後、適量のトロロアオイを入れて粘りを出す。紙すきの後はプレスにセットし、適度な水分を残しながら加圧して水を切っていく。最後は、それを取り出して干板に貼り付けての自然乾燥だ。数十枚のハガキを貼り付け、1枚1枚を椿の葉っぱで延ばしていく作業はなかなか根気がいる。(次回へ続く)
投稿者 ryokudo : 15:26 | コメント (0)
2006年06月17日
越前竹人形
..............................................................................................撮影:若洲一滴文庫

5月20日と21日の両日、福井県大飯町にある若洲一滴文庫のくるま椅子劇場において、若洲人形座による竹人形文楽「越前竹人形」が上演された。1986年に旗揚げされてから、若洲人形座による公演は今回で47回目になるそうだ。
物語は、越前武生の山深い竹神村の竹細工師 氏家喜助の孤独な住まいに昔、父の情人であった芦原の娼婦 玉枝が、墓参りに訪れたところから始まる。真っ暗にした劇場の中、スポットライトがあたる幅2間ほどの小さな舞台の、出演者が3人の竹人形とその人形遣い、そして、語りと笛だけの少人数の舞台ではあるが、約80分、220人の観客は最後まで目を離さず、少しも動かなかった。
筆者も、はじめて触れる水上文学と文楽の面白さに大満足し、ハンドルを握って帰宅の途についた。若洲人形座の公演には、この他に、はなれ瞽女おりん、曽根崎心中、人形揃い文などがある。
あやべ温泉では、せっかく山奥まで足を運んで頂いたお客様に、この府道一号線および福井県道一号線沿いの立寄って頂きたい黒谷和紙工芸の里、国宝二王門、幻の大栃の木、そして、この若洲一滴文庫などをご紹介させて頂いております。
投稿者 ryokudo : 11:15 | コメント (0)
2006年06月10日
上林禅寺(No.2)
...... ........................................撮影:中上林 八津合町

(前回の続き)
上林禅寺の黒川和尚は、31年前、神戸からこの寺に移って来られたそうだ。そして、馬場の永勝寺から当地へ移築した本堂の、損傷の大きかったこの襖絵を修復されたという。また、庭には樹齢二百数十年の枝垂桜があるが、近年かなり弱ってきたので樹木医に依頼し、治療されたそうだ。その様子を、6月初めにNHKテレビでも放映されたという。
そして、つい先日、あやべ新聞でも紹介されたが、18年間にわたって、実に3万巻近い般若心経の写経を続けておられる奥上林鳥垣の熊内正義さんの区切りの写経が額に入れて数点奉納されている。
当寺と同じ禅宗の臨済宗を信仰する筆者も、時々は当寺を訪れ、きれいに清掃された庭を拝見しながら、本来生きるための教えである仏教について考えてみたいと願っている。
投稿者 ryokudo : 14:04 | コメント (0)
2006年06月06日
上林禅寺(No.1)
..............................................撮影:中上林 八津合町

........................................................襖絵...竹林の七賢
中上林八津合町にある上林禅寺には、江戸時代の画家 狩野派の吉田元陳が描いた24枚の襖絵がある。本殿や客間には、唐獅子、豊干寒山拾得虎、竹林の七賢、花鳥図や山水画などの水墨画があり、現代の油絵や水彩画などとは異なった歴史感のある落ち着いた雰囲気を感じさせてくれる。これは、綾部市の指定文化財に登録されているそうだ。
初めて訪れた絵画心の薄い筆者も、この前に座ると不思議と穏やかで涼しげな気持ちになる。襖絵については「藤掛山客殿襖記録」として制作記録が残されており、当時の支援者や協力者など襖絵に関わった人々の様子がよくわかる貴重な資料である。
当寺の本堂は、寛永5年(1628)上林城主であった藤懸永重が父永勝の菩提を弔うため八津合町馬場に建立した永勝寺のものを1978年に当地に移築したそうだ。従って、ここには、永勝以来の藤懸家 歴代の位牌を大切に保管し、供養されている。ちなみに、藤懸家のご子孫の方々は、現在、関東の地にお住まいとのことだ。(次回へ続く)
投稿者 ryokudo : 13:39 | コメント (0)
2006年04月24日
光明寺 大般若法要
............................................................................................撮影:君尾山

4/18、君尾山に咲く満開の桜に囲まれた光明寺の本堂で、地域の檀家や寺総代、奥上林自治連合会長などの関係者が参加して大般若法要が行われた。今年は、光明寺の住職を中心として、近隣の寺のお坊さん達8人によってお経を唱えながらたくさんの経典を高く上げてバラバラと捲りながら無病息災と延命長寿を祈願する光明寺最大の行事である。
この祭りには、昨年に続いて上林小学校の全校生徒60数人が参加した。法要の始まる迄に、お寺や仁王門などをテーマにした水彩画を描き、法要の後は、持参した弁当を食べたり、地元の青年団が出店している玩具や食べ物を買うなどして、引率の先生たちと共に課外学習を満喫し、にぎやかでとても華やいだ風景だった。
<光明寺一口メモ>
以前にも紹介したが、光明寺は、推古天皇7年(599)聖徳太子が建立したという真言宗醍醐派に属する修練道場の寺であり、光明寺が最も栄えたのは平安から鎌倉にかけての時代で、上林7里の谷を荘園として支配し、山上山下に坊舎72坊におよぶ大寺院であった。しかし、戦国時代には3度にわたる戦火で二王門を除く全山が焼失した。本堂は1836年、上林領主の藤掛左京の援助で再建され、本尊は千手観音菩薩をまつる。
投稿者 ryokudo : 16:15 | コメント (0)
2006年04月04日
八幡神社(No3)
.............................................................................撮影:中上林 八津合町

全国に4万社ある八幡神社の総本宮は、大分県宇佐市にある宇佐八幡宮だ。ここには、応神天皇、比売大神、神宮皇后の三神が祀られている。
品位は皇族にのみ与えられる「位階」だが、聖武天皇は天平元年(749)八幡大神に一品を叙している。つまり、八幡神は皇室の祖先であり一品の位が贈られているという。主祭神を応神天皇としているが
不思議なことに比売大神が中央に配置されているそうだ。
この神宮の拝礼方法は、二礼四拍手、一拝である。あの大国主命を祭る出雲大社と同じ作法であり、全国でもこの2ヶ所だけである。つまり、殺害された神であり、そのタタリを恐れるため「死拍手」で封じ込めているという。
では、この宇佐八幡宮とは誰か「逆説の日本史」の著書である井沢元彦氏は、八幡宮の主祭神は比売大神であり卑弥呼であるという。クナ国との戦いに敗れた邪馬台国の女王である卑弥呼はその敗戦責任をとらされて248年に殺された。そして、その卑弥呼が大和朝廷の祖であり、神格化されてアマテラス(天照大神)になったと・・・・。
また、この宇佐八幡宮は天皇家にとっての墓所であり、天照大神を祭る伊勢神宮は「創始者の銅像」であるとも・・・・。日本史には謎が多いが推理があるから面白くもある。興味のある方は「逆説の日本史」を読んでほしい。きっと歴史が面白くなる。
投稿者 ryokudo : 15:27 | コメント (0)
2006年03月29日
八幡神社(No.2)
........................ ................撮影:中上林 八津合町

八幡神社の本殿入口の両脇には、「狛犬」が置かれている。犬に似た想像上の獣の像(こま)つまり異国の犬という意味だそうだ。向かって右側の像は「阿形」で角はなく、左側の像は「吽形」で1本の角があって両方の像を合わせて「狛犬」と称することが多い。
厳密には、角のない像を「獅子」、角のある像を「狛犬」と言い、一対で「獅子狛犬」と称するのが正しいそうだ。阿吽(あうん)の形は日本に多く、これは、仁王の影響を受けたと考えられ、平安時代にはすでに定着していたという。
日本の狛犬は、各地の神社に多く造られており、形態も様々なバリエーションがある。例えば、イノシシや龍、狐の形の像も同じ役割を果たしていることもあり、これらを合わせて「神使」と呼ぶそうだ。「神使」は神社(祀られる神)によって特定の動物が採用される場合があり、稲荷神社の狐、春日大社の鹿、弁財天の蛇などが代表的なものである。(次回へ続く)
投稿者 ryokudo : 19:15 | コメント (0)
2006年03月27日
八幡神社(No.1)
....................................................................................撮影:中上林 日置谷

中上林の八津合町には、樹齢数百年の杉木立に囲まれた八幡神社がある。祭神は勿論、応神天皇だ。境内は真昼でも薄暗く、空気もひんやりと冷たくその歴史を感じさせる。
全国4万社ある八幡神社の1つとして、建武2年(1335)京都の石清水八幡宮より勧請。関が原合戦の翌年、慶長6年(1601)上林城主 藤懸永勝の領地となり、江戸時代には領主の篤い保護を受けたという。
八幡さんは、2年に一度収穫を祝う秋祭りが10月に行われる。氏子達が一同に会し、大勢の参拝者の中で式典があり、その後は神楽の獅子舞そしてハッピ姿の若者達が担ぐ神輿が村々を練り歩く。都会ではなかなか見られない伝統の趣がある。(次回に続く)
<ひとり言>
日本には八百万の神々がある。受験合格、除災招福や入学の祝いなど数々の人生儀礼において祈願を行い、その功徳を得ようとする。「神仏を尊んで、神仏に頼まず」とは、60数回の真剣勝負で一度も負けなかった江戸時代の剣豪 宮本武蔵の言葉だが、私のような凡人は神仏に頼むことがこの上なく多い。比べる方が無理か・・・!!!
投稿者 ryokudo : 09:33 | コメント (0)
2006年02月11日
金剛力士像
...............................................................................撮影:光明寺 二王門

光明寺二王門に安置されている金剛力士像は、開口の阿形像と閉口の吽形像が一対として安置されており、地元では仁王さんと呼ばれて親しまれている。
金剛力士は、仏教の守護神である天部の一つ。原語は「金剛杵(仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意味がある。上半身は、裸形で筋肉隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕にし、吽形像は怒りを内に秘めた表情を表わすものが多いそうだ。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表しているという。
光明寺は、本尊に千手観音菩薩を祭っている。この千手観音の眷属である二十八部衆の中にも仁王像があり、この場合、阿形像は「那羅延堅固王」(ならえんけんごおう)、吽形像は「蜜迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし)と呼ばれるそうだ。
あやべ温泉のお風呂は、この千手観音の仁王像に由来して「ならえん湯」と「みっしゃく湯」と名前をつけています。来館者の方々には、ゆっくりと入浴を楽しんで頂いておりますが、あまり長湯が過ぎて金剛力士のように赤くなって、湯あたりをされることがないようにお願いしたいものです。
投稿者 ryokudo : 15:51 | コメント (0)
2006年02月01日
光明寺 二王門
..................................................................................................撮影:君尾山

国宝の光明寺二王門。あやべ温泉から北へ約2キロ、君尾山の中腹にある古刹、光明寺の山門である。鎌倉時代建立の数少ない二王門で、丹塗りの色彩が味わい深く、京都府北部で唯一国宝に指定されている建造物だ。
新緑、紅葉、そして雪と四季折々の美しさを見せてくれている。この二王門は、三間一戸の二王門で、一階と二階のそれぞれに屋根を持つ珍しい二重門の形式である。
仁王門とは、文字通り一対の阿吽形の仁王(金剛力士)像を安置する門のこと。一方、二王門とは、一階と二階のそれぞれに屋根を持つ二重門の別名である。
ちなみに、二階のある門のうち屋根が一つの門は、特に「楼門」と呼ばれているそうだ。
二王門へは、歩くと往復で約90分程度です。気候の良い春秋には、季節の風を感じながらマイナスイオンたっぷりの参道を散策してみてください。運がよければ、野ウサギや狸が出迎えてくれるかも・・・・。なお、参道は、一昨年の台風23号で道路が崩れて車では通行できませんが、迂回路の林道を通れば7~8分で光明寺まで行けます。
投稿者 ryokudo : 21:24 | コメント (0)
2006年01月26日
光明寺 (No.2)

<仏教一口メモ> 前回の続きです。
ご存知のとおり、仏教は、2500年前インド釈迦族の王子である釈尊の教えである。当時の教えは解脱(悟り)。漢の時代、中国に伝わりやがて、百済の聖明王から538年、聖徳太子の祖父である欽明天皇の時に日本に入ってきた。
平安京を開いた桓武天皇は、大仏を擁した平城京とその仏教を捨て、新たに最澄や空海を中国に派遣して仏教を学ばせた。特に延暦寺は、平安京の鬼門(東北)に位置することから桓武天皇の大いなる庇護を受けたそうだ。
鎌倉時代に入り法然、栄西、明恵、親鸞、導元、日蓮、一遍などの新仏教の開祖たちがキラ星のごとく誕生し「人民の救済」としての教えは大いに広まった。江戸時代に、徳川家康は生きるための教えを儒教におき、仏教は死者(仏)の供養のためのものとした。
そして明治に入り、政府が「僧が妻子を持つ」ことを許し、寺の世襲制が定着したことにより、仏教の権威はますます低下してしまったという。2500年後の今、釈尊の教えはこれから先、何処に向かって進むのだろう。
投稿者 ryokudo : 15:01 | コメント (0)
2006年01月23日
光明寺 (No.1)
あやべ温泉から北へ約2km、推古天皇7年(599)聖徳太子が建立したという真言宗醍醐派に属する古刹、君尾山光明寺がある。光明寺が最も栄えたのは平安から鎌倉にかけての時代で上林7里の谷を荘園として支配し、山上山下に坊舎72坊におよぶ大寺院であった。しかし、戦国時代には数度にわたる戦火で二王門を除く全山が焼失した。本堂は1836年、上林領主の藤掛左京の援助で再建され、本尊は千手観音菩薩をまつる。
..................................................................................撮影:君尾山

4月18日がこの寺の祭りである。筆者の子供の頃は大層賑わって多くの参拝者で溢れかえったことを懐かしく思い出す。露天商も数多く出店し、わずかな小遣いをもらって参道を駆け上がり、玩具やお菓子を買うのがとても楽しみであった。桜咲く春には、昔日の思いを込めて久し振りに参拝してみたいと思う。
投稿者 ryokudo : 16:40 | コメント (0)
2005年12月16日
城山
中上林には、城山と呼ばれる奇妙な形をした小山がある。手前には清流上林川が流れ、山の向こう側は石橋、山田など4村、80軒ほどの集落がある。城山という名のとおり、江戸時代は藤掛藩の城があったそうだ。
もし、ここに天守閣の城があったら、そこから見下ろす眼下には「山紫水明」緑豊かな上林の景観を一望できるのは勿論、斉藤道三の美濃 稲葉山城にも匹敵?する堅固な山城になったであろうと戦国の空に想いをめぐらすことができる。

藤掛藩は、戦国時代からの旧家であるが関が原の合戦では西軍に味方し、細川幽斉の篭城する西舞鶴 田辺城を攻撃した。しかし、幽斉と親しかった藤掛永勝は、小野木藩(福知山城主)への義理の参戦であったため空砲で攻めたという。後日、それを知った徳川家康は、西軍に味方した殆どの藩の領地を没収したが、藤掛藩に対しては石高を半減し、新領地として何鹿16郷の1つであるこの上林(拝師郷)の地を与えたそうだ。
あやべ温泉の姉妹施設である上林山荘は城山の中腹にある。雪景色を肴に、宿泊者の皆様方とも、日本の長い歴史の中で唯一実力主義の時代であったといわれる戦国の世を生きた武者たちの、うたかたの夢を語り合ってみたいものだ。
<藤掛永勝 一口メモ>
父は織田右馬允、藤掛善右衛門の養子となる。織田信長の妹・お市の浅井長政輿入れ時に付随した。また、小谷城攻めではお市の方と三子を救出する。後に秀吉に仕えて、小田原攻めや朝鮮の役に従軍した。1601年、6千石で上林に入部。
投稿者 ryokudo : 10:08 | コメント (0)
2005年12月08日
茶室
................................................................................撮影:八津合町 石橋

上林山荘のすぐ近くの民家には、かやぶき屋根の粋な茶室がある。この茶室、一蓑庵という。元市会議員であった井上甚太郎さんが21年ほど前に建築されたそうだ。 一蓑庵は二畳敷きで、前面に面坪の内があり、右隅ににじり口がある。二畳間の正面に床が設けられ、二畳間の奥には一畳敷きの小さな部屋がある。これは、秀吉が利休に命じて造らせた天王山の「待庵」と同じ間取りであり、利休の追求する「侘び」の極致を示している。
茶室の入口には水琴窟があって竹筒を耳にあてると、心が洗われるような澄んだ音色を楽しむことができる。甚太郎さんは、小説家の水上勉氏とも親交があって、一蓑庵の完成時には訪問されており、庭園には良寛和尚の歌を水上氏の直筆で刻まれた石碑がある。ちなみに歌は『世の中に おなじ心の人もがな 草のいおりに一夜語らん』とある。
案内して頂いた奥様のお話によると、茶室は、武士が戦の密談をしていたところが発展してきたものだそうだ。茶こころの乏しい筆者も、一度はこんな茶室で一服頂くことができればこの上ない幸せな気分である。
母屋の隣にはもう一軒の茶室がある。どちらも、ご主人が亡くなられてからは使用されていないとのこと。庭の紅葉が真黄色に色づき、晩秋の風に舞っているのがとても印象的であった。 (この茶室、現在はトタン屋根になっている)
投稿者 ryokudo : 09:34 | コメント (0)
2005年09月27日
上林太鼓
撮影:睦寄町 ラーメン店 『の』

9/10(土)ラーメン店『の』の駐車場を利用して「いな木ライブ」が開催された。筆者が上林太鼓と出会うのは、昨年の元Xジャパン「Toshi」と競演されて以来2回目、リズミカルで迫力ある演奏にすっかり魅せられてしまった。念願かなって代表の波多野保美さんに活動概要をお聞きし、その一端を紹介します。
「平成9年、森田名誉会長から上林太鼓を残して行きたいがやってくれないかとの申し入れがあり、会長の意志を引き継いで今日までやってきた。今は、地元に根付いてきた伝統ある和太鼓を次の世代に伝えて行きたいとの思いでやっている」と熱く語る。
中上林のメンバーを中心に、大人が12人、子供も参加して、毎週土曜日の夜に室尾谷神社の境内を借りて練習されている。子供を送迎するうちに自身も参加するようになり、親子でやっている人も多い。また、ドラムを叩いていた人が太鼓とのセッションを目指してやっておられる方もいる。
波多野さんのリーダーシップに惹かれてやられているメンバーの方も多く、練習の終わった後は『の』に集合し、ジョッキを傾けながら太鼓談義に話が弾んでいます。ここにも1つ、上林の大きなチカラがあると確信した。
投稿者 ryokudo : 16:00 | コメント (0)
2005年09月22日
杉
撮影:睦寄町 古屋

奥上林の面積の90%は山林。ぶななどの原生林が多い自然豊かな中ではありますが一方、多くの杉や檜が植林され保安林としての役割を果たしています。
稲が主要作物の日本では、昔から田に水を豊かにたたえておくことが重要な務めでした。大雨でも洪水が起きず、日照りが何日も続いても田が干し上がらない、それが多くの日本人の悲願だったのです。
そこで、昔の人は水源地帯の森林を「水持ち山」などと呼んで掟を定めむやみに伐ることを禁じたり、木を植えたりして大切にしていたそうです。現代ではこれを「緑のダム」などと表現しています。裸地に比べ森林の保水効果は約7倍もあるからです。
奥上林は、由良川、上林川の上流に位置し、保安林としての役割はたいへん大きいものがあり、森林組合を中心として枝打ち、除伐や間伐などの人工林の整備が順次進められております。
投稿者 ryokudo : 16:35 | コメント (0)
2005年07月07日
ショウベン滝

あやべ温泉から約4km、大岩にある通称ショウベン滝です。梅雨の最中、たっぷりの水量で山肌を洗うように流れ落ちています。周囲の木々の緑が落ち着いた風情を感じさせてくれています。
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2005年07月04日
国宝の光明寺二王門

国宝の光明寺二王門です。あやべ温泉から約2キロ、君尾山の中腹にある古刹光明寺の山門。鎌倉時代建立の数少ない二王門で、丹塗りの色彩が味わい深く、京都府北部で唯一国宝に指定されている建造物です。新緑、紅葉、そして雪と、四季折々の美しさを見せてくれます。